宗教の違いが原因で、とてつもない残虐行為が行われることがあります。
神聖ローマ帝国のカール5世と、その息子のスペイン王フェリペ2世は、
悪名高き異端審問を推進したことで知られます。
1521年に発布したオランダ人への勅令の中でカール5世は
「(ルター)の弟子と改宗者はすべて死刑に処され,
彼らの財産はすべて没収されるべきである」
としました。
やがて、家庭における宗教的崇拝のための集まりや聖書朗読、
宗教上の論争点を討論することなどすべて禁止され、
男は打ち首にし、女は生き埋めにせよ、という命令が出されます。
カールの40年にわたる支配の間に、
5万から10万のオランダ人が異端審問で殺されました。
過酷な支配は反発を呼び、各地で暴動が起きます。
そこでフェリペ2世は、宗教裁判所長としてアルバ公をオランダに派遣しました。
アルバ公は、2万4千人6千頭の馬を率いて到着します。
異端審問、略奪、虐殺が行われました。
アルバの6年の支配期間中に1万8千人以上が処刑されました。
ところが、ますます頑強な抵抗に遭います。
彼の3万の軍隊は、ハールレム市を攻略するのに7か月かかり、
1万2千人の兵士を失いました。
(余談だがニューヨークのハーレムはオランダのハールレム出身の
入植者にちなんで呼ばれている)
このようなカール5世やフェリペ2世、アルバ公とは違って、
宗教的寛容さを示した人物がいます。
それが『オランダ独立の父』ヴィレム1世(オラニエ公ウィレム)です。
1959年のことです。
オランダの若き公爵オラニエ公ウィレムはフランスの王アンリ2世と共に
パリ郊外へ狩猟旅行に出かけました。
たまたま二人だけになったとき、アンリはウィレムに、
スペイン王フェリペがオランダとフランスのプロテスタント信者を
全て皆殺しにする計画を立てていることを打ち明けました。
オランダでは同国に駐屯しているスペイン軍がその遂行に当たるというのです。
王アンリは若いウィレムも自分と同じ熱心なカトリック教徒だと思い込んでいたので、
計略を細部に至るまですべて打ち明けたのでした。
確かにウィレムはカトリックを奉じていました。
しかしプロテスタントの友人も多数いたウィレムは、
その謀略を聞いて愕然とします。
それでもウィレムは驚きを隠します。
表面上、カトリックの支持者としての態度を貫きました。
ここからウィレムは『沈黙公』と呼ばれることになります。
オランダへ帰る前に、
ウィレムはその恐ろしい計画を実行に移す際の自分の役割に関して
明確な指令を受けました。
しかし彼は、帰国後直ちに、スペイン軍の撤退を願うよう国民感情をあおります。
事実、その虐殺計画を阻止するためにあらゆる手段を講じました。
「人間より神に従う方が大切だと思っていた」と後に語ります。
このことがきっかけで,ウィレムは「祖国の父」となる道を歩み始めたのです。
1566年、フランドル州で反カトリック暴動が発生し、
瞬く間にネーデルランド北部にも拡大します。
そこでフェリペ2世は、あのアルバ公を派遣したわけです。
アルバはネーデルランド貴族20人余りを処刑したりします。
ウィレムも領地を没収されながらも、アルバに戦いを挑みます。
ウィレム自身は戦争が上手ではありませんでした。
敗北しフランスに逃れたりします。
陸上では負け続けでしたが、『乞食団』と呼ばれる海賊たちがウィレムに協力します。
彼らは海上に冒険を求めた貧民や失業者、
それに宗教的迫害から逃れた市民や貴族が加わっていました。
“乞食”とはスペイン政府側が彼らを罵った蔑称だと思われますが、
海賊たちは自ら“乞食”を栄誉の呼称として用います。
そして乞食の椀とメダルがシンボルとなります。
ウィレム軍は徐々に勢力を回復し、ホラント、ゼーラント両州総督となり、
反スペイン勢力の中心となりました。
そのうちウィレムはプロテスタントに改宗し、「宗教改革の兵士」となったのです。
スペイン軍に包囲されたアルクマールやライデンなども次々に解放します。
ウィレムの首に莫大な賞金をかけられました。
そのためウィレム暗殺が幾度か試みられます。
ついに1584年、ウィレムは凶弾に倒れ,51歳でその生涯を閉じました。
ウィレムの始めたオランダ独立戦争は、ウィレムの非業の死の後も続き、
80年もの長い戦いの末、ついにオランダは完全独立を果たしたのです。
『沈黙公』ウィレムの名は、宗教的寛容さと思慮深さの点で後世に残ります。
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歴史の中で、あるいは今も、「おっかない独裁者」というのがよく登場するものです。
ヒトラーとか、スターリンとか、金正日とか、・・・。
この種の独裁者は国家レベルだけではありません。
実は地方政治においても登場することがあります。
その代表として、カナダ・ケベック州のモーリス・デュプレシ州首相を紹介します。
まずカナダの政治制度を説明しますと、連邦に英国から派遣される総督がおり、
各州に副総督がいて、英国女王の代理となります。
総督、副総督は名目的存在で、実際の政治は連邦では連邦議会(2院制)が指名する首相、
州では州議会(1院制)が指名する首相が行います。
州政府は州首相を中心とした内閣によって構成されます。
地方政府も議員内閣制というのが特徴です。
デュプレシは1936年から1960年までの長期にわたって、
(途中中断があるものの)ケベック州の首相として君臨した独裁者でした。
その権力を支えたのはローマ・カトリック教会でした。
ケベック州に住む人たちはフランス系移民が大半を占めます。
公用語もフランス語です。
カナダの他州がアングロ・サクソン系の英語を話すのとは異色の存在と言えます。
さらにケベックが異色なのは、まるで中世ヨーロッパ社会みたいなのが残っていたことです。
教会が人々の生活を支配していました。
村人は日曜毎に礼拝を行い、司祭から教えられることは絶対の真理でした。
教会以外の情報源をほとんど持たなかったのです。
フランス本国では、すっかり近代化が進み、教会の権力が低下していたのに、
移民先のケベックでは20世紀に入っても、同じ状態だったわけです。
最初、ケベックはフランスの植民地でした。
絶対王政時代のフランス社会がそのままケベックに移植されたようなものでした。
カトリック教会が政治経済教育文化の全てにおいて中心となります。
後に英国が勢力を伸ばし、ケベックを支配下に置きます。
その後、フランスでは革命が起きて、社会が大きく変化しました。
アメリカ大陸でも独立革命が発生し、英国はカナダにも影響が及ぶことを恐れます。
英国はケベックの変化を望みませんでした。
そこで、英国を支持する条件で、
ケベックの支配権をそのままカトリック教会に委ねることにしたわけです。
ケベックはフランス革命、アメリカ独立革命,そして産業革命などの影響を受けなかったのです。
18世紀農耕社会の遺物が残されました。
実に300年、カトリック教会がケベックに君臨していました。
官庁、教育機関、企業、報道機関、家庭をも支配します。
あらゆる自由主義あるいは教権反対の思想を排斥するのが教会の方針でした。
デュプレシは熱心なカトリック教徒でした。
カトリックの支配権を何よりも大事にします。
カトリック教会は全面的に、デュプレシ政権を支持します。
説教壇から、デュプレシの政党に投票するように人々に呼びかけられました。
司祭が教えることは、全て正しいと信じられています。
デュプレシを褒め称えるお説教を、素朴な人々は受け入れました。
デュプレシは自由を嫌悪しました。
司教たちは,フランスで果たせなかったキリスト教国家建設をケベックでやろうとします。
両者は中世的な捕らわれから解放するものとなる教育や進歩を抑圧することに躍起でした。
ケベックの住民を圧制的な教会‐国家支配に服させることを理想としたのです。
政治と宗教の融合によって、デュプレシの長期独裁が可能となりました。
社会の発展が遅れたおかげで、ケベックには世界遺産の街並みが残るという利点があります。
できれば、そのまま博物館に保存したくなるような封建的社会です。
しかし、否応無く20世紀の文化が、ケベックにも入り込みます。
最大の変化はテレビだったと思います。
テレビで、ケベック以外の世界の様子を映像で見ることができます。
ケベックの人々は自分たちが遅れていることを知ります。
若い世代が、次第に不満を募らせることになります。
変化を求めるようになったのです。
独裁者デュプレシの死が、きっかけとなって、
変化を求める内部圧力が爆発しました。
「静かな革命」の始まりです。
州政権の交代と共に、教育と宗教の分離、技術教育の導入など一連の改革が実行されます。
マスコミはカトリック教会に不利な情報も報道できるようになります。
カトリックの影響が著しく低下していきました。
現在のケベックはすっかり近代化された社会となっているそうです。
観光地として、日本人に人気がある場所ともなっています。
(行ってみたいよう・・・)
それにしても、一人の支配者の死が大きな変化を及ぼすことが、あるんですねぇ。
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一般にSF作家の始まりはフランスのジュール・ヴェルヌと英国のH・G・ウェルズだとされている。
このうちヴェルヌの作品は、私が小学生時代に夢中になって読んだものだった。
当時、日本語で翻訳され、出版されたものは全部読んだと思う。
大型書店に出かけて、入手の難しいものまで探した記憶がある。
ざっと作品を挙げてみると、
『月世界旅行』
『八十日間世界一周』
『十五少年漂流記』
『気球に乗って五週間』
『海底二万里』
『八十日間世界一周』
『皇帝の密使』
『黒いダイヤモンド』
『悪魔の発明』
『砂漠の秘密都市』
『地底旅行』
等・・・・。
他にも、たくさん読んだと思うが、タイトルが思い出せない。
どんな内容だったのかも、すっかり忘れてしまった。
恐らく世界中の男の子を夢中にさせていたのではないか?
フランス文学で、最も翻訳されているのがヴェルヌ作品だと聞いた。
読者数も圧倒的に多いと思う。
ヴェルヌは19世紀半ばから、19世紀末まで、次々と少年向け小説を生み出した。
「既知および未知の世界への驚異の旅」シリーズとして、刊行し、全てベストセラーになった。
19世紀後半の西洋諸国は世界中に進出して、次々と植民地化していた。
帝国主義時代に入ったのである。
少年たちは各地への冒険、征服物語を聞いて、胸を躍らせていたのだ。
科学の発達も進んでいた。
科学の力は、さらに未知の世界へと少年たちに夢を与えようとしていたのだ。
ヴェルヌの作品の背景には、このような時代の空気に満ちている。
ヴェルヌは19世紀の科学知識を元に、宇宙旅行、潜水艦、ヘリコプター、空調設備、
誘導ミサイル、映画、大量破壊兵器などの出現を予言している。
しかも世界中のヴェルヌの作品を読んだ多くの男の子たちが、
大人になって、科学者になった。
例えば、宇宙ロケットの開発の影にヴェルヌ作品の影響があるのは間違いない。
以前、NHK番組で『悪魔の発明』で登場する特殊爆弾の仕組みの
“連鎖反応”の説明を読んだ物理学者が、そこからヒントを得て、
核分裂エネルギーの応用に役立てた話があった。
ヴェルヌは現代史を動かしたのだ。
ところが、高校時代の世界史教科書に、ヴェルヌについての記述がない!
何でだ?
その代わり、19世紀の文学として、
古典主義のゲーテやシラー、
ロマン主義のバイロンやユーゴー、ハイネ・・・
写実主義、自然主義のバルザックやスタンダール、ドストエフスキー、モーパッサン、・・・
などが載っていた。
世界史試験に出るので、作者名と作品名を覚えなくてはならない。
だが、私は世界史教科書に載っている文学作品をどれも読んだことがなかった。
読んだことがあるのは、ヴェルヌのSFとか、
モーリス・ルブランの『怪盗ルパン』とか、
デュマの『三銃士』、『モンテ・クリスト伯』などだ。
だが、SFや推理小説、歴史小説は“大衆娯楽”として、価値が低いらしい。
卑しくも“文学”と名乗るには、○○○主義の系統に属する、
“高等”な作品でなければならないらしい。
ちょっと待て!!
歴史家は文学者ではないぞ!
価値の高い文学は、どうでも良いのではないか?
文化史で取り上げるべきは、
・多くの人々に影響を与えた
・現代でも影響がある
ものではないのか?
なるほど、ヴェルヌの作品は「人間を描く」点では、お世辞にも、傑作とは言いかねる。
特に作品中に登場する女性は、とても現実的ではないし、心理描写も深くない。
“文学的”に価値が低いことに、私だって同意する。
しかし“歴史的”には、どんなフランス文学よりも“価値”があると信じる。
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ソロモンは古代イスラエルが最も繁栄した時期の王である。
エルサレムに壮麗な神殿を建設した。
神殿建設には、荷物運搬人だけで7万人、石を切る者が8万人という具合に、
膨大な強制労働を徴用し、7年半かかったものだった。
その他にも、13年かけて壮大な王宮を建設している。
防備のための都市も幾つか建設し、
倉庫の都市、兵車の都市、騎手のための都市なども建設した。
これらの都市の幾つかは、発掘され、
ソロモン時代の壁や城門の一部などと考えられるものが発見されているそうだ。
ソロモンの富はめちゃくちゃ多く、金の年間総収入が現在の価値で200億円を下らない。
人々は黄金に満ちていたため、銀は取るに足らないもののように見なされていたほどだった。
富の元となったのは、交易によるもので、あらゆる場所の貿易商人が、やって来た。
四千の畜舎や、1万8千頭の馬あるいは騎手を持っていたという。
ソロモンも、フェニキア人と提携して、貿易船団を組織して、海外交易を積極的に推進した。
数多くの珍しい品々がエルサレムにもたらされたという。
しかし、ソロモンの治世の後半は、圧政的だっため、
各地に反乱分子が登場し、不穏なものとなった。
イスラエルの繁栄は長続きしなかったのだ。
ソロモンの次の王レハベアムのときに王国は分裂し、
2度とソロモン時代のような繁栄は戻らなかった。
ここから以下は、私の仮説ないし、推測を多く含む。
こうしたソロモンの繁栄と衰退の影に、
大国エジプトとの関係の変化があるのでは?と思う。
ソロモン治世当初、エジプトとの関係は極めて良好だった。
エジプトのファラオの娘と政略結婚を行っているほどだ。
エジプトから馬や兵車を大量に買い付けている。
この頃はエジプトにとっても、ソロモンとの交易に利益を見出していたのだろう。
だが、反ソロモン勢力が登場する頃、エジプトの態度は大きく変化しているのではなかろうか?
才能あふれる若者であったヤラベアムが、ソロモンに反旗を上げると、
ソロモンはヤラベアムを殺そうとする。
そのヤラベアムは亡命先にエジプトを選んだのだ。
エジプトでヤラベアムを中心とした反乱勢力が誕生する。
当然、エジプトのソロモンに対する敵対的意思が背景にあったはずだ。
ソロモンの死後、ヤラベアムがエジプトから帰国し、
イスラエル10部族代表として、ソロモンの後継者レハベアムと交渉し、
分離独立を果たす。
ヤラベアム王国(北のイスラエル王国)が金の子牛崇拝を国家宗教にしたのも、
エジプトの影響によるものと考えたい。
エドム人ハダドは、子供の頃、
ソロモンの父ダビデ王の軍司令官ヨアブの軍に一族を皆殺しにされている。
殺された父親の部下数人と共に少年ハダドはエジプトへ逃げた。
ハダドはエジプトで成長する。
エジプトのファラオは自分の妻の妹をハダドと結婚させているほどハダドを可愛がった。
そんなハダドはダビデに代わってソロモンがイスラエル王になったことを知ると、
復讐のために、故郷の地に戻り、“エドム解放軍”を組織し始める。
ファラオはハダドにわざわざ苦労しに行くことはない、
エジプトで欲しいものは何でも与えると言って引き止めた。
ハダドの決意は変わらなかったという。
ハダドの反ソロモン抵抗運動に、やはりエジプトの援助があったと思われる。
エジプトの外交政策の転換が反映していると思う。
ソロモンの死後、その子レハベアムがイスラエル王となる。
するとヤラベアムが帰国し、北部10部族代表となり、やがて王国は分裂する。
レハベアムのユダ王国と、ヤラベアムのイスラエル王国である。
ユダ王国とエジプトとの関係は、さらに悪化し、
エジプトのファラオ・シシャクが大軍を率いて、エルサレムを攻略、略奪する。
レハベアムはエジプトの属国となることを余儀なくされた。
エジプトの外交政策の変化をまとめてみると、
ソロモン初期 :
極めて良好。政略結婚。
ソロモン王国が交易で繁栄を極める。
ソロモン後期 :
しだいに悪化。
ソロモンの繁栄を良く思わなくなったか?
エジプトは反ソロモン勢力に加担し始める。
ソロモン王国の没落が始まる。
レハベアム :
ヤラベアムを送り込み、イスラエルを分裂させる。
さらに直接軍事行動に出て、属国化。
と、なるのではないか?
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杭州は雨だった。
ホテルは西湖のすぐそばで、西湖の風景が美しいのだが、雨のため霞んでよく見えない。
そのうち雪が混じってきた。
恐ろしく寒い。
そんな中、妻と合羽を着せた3歳の娘を連れて西湖観光を敢行した。
案の定、観光客は極めて少ない。
西湖周辺のあちこちで公安係員を見かける。
たぶん警備する人の方が多い。
湖畔の園地に入るとまもなく、警備中の公安職員二人に呼び止められた。
何???
すると一人がカスタネットの玩具を取り出して、娘にくれるという。
意外なことに驚いた。
謝々!
玩具をしっかり握り続ける娘だが、眠いらしく機嫌が悪い。
途中で歩かなくなり、抱っこをせがむ。
ここ最近、私は腰痛で、14kgを超える娘をいつまでも抱っこできない。
かと言って、雨の中、ベンチはびしょぬれで、座るところもないし、困った。
湖畔遊歩道をときどき、電動の乗り物が通り過ぎるのに気付いた。
しかし、どこで乗り込むのだろう?
乗り場が見つからない。
まもなく電動の乗り物に向かって、手を挙げると、どこでも乗せてくれることに妻が気付いた。
湖を1周一人40元。1周50分ぐらいだそうだ。
なーんだ。
これに乗って西湖を一周する。
運転手は若い男で、運転しながら、観光案内をする。
早口の中国語を聞き取れないので、よくわからないが、あそこは毛沢東が泊まったところだとか、誰それという歴史的有名人が作ったものだとか言ってるらしい。
柳の木々の中を進む。
風景がとてもきれいだ。
車に乗り込むと、娘は上機嫌になった。
おまけに日本語の歌を大声で歌いだす。
それで乗り合わせた他の乗客たちが笑い出した。
唱歌・・好・・。(歌が上手だねぇ)と言ってくれるおばあさんもいた。
我们是日本人。っと慣れない中国語で答えると、おお日本人なんだ。と意味が通じた。
この娘は真可愛!
幾歳了? 5,6歳?
3歳
真聡明!
しばし簡単な中国語会話を楽しむ。
日中友好の架け橋となる我が娘である。(親馬鹿)
乗客たちは皆、杭州市内の人らしい。
杭州市民は杭州が世界で一番美しいと信じているので、他の地域に遊びに行かないと聞いたことがある。
車を降りて、湖畔を歩くと、舟に乗らないかと呼び込みをする人たちが待ち構えている。
いやぁ、今日は寒いから、小船には乗りたくない。
不要。不用!と断り続けて、遊覧船乗り場に急ぐ。
どこへ行く遊覧船か知らぬが、適当に切符を買って乗り込む。
風が吹き始め、一層冷えてきた。
あたりが真っ白になってきた。
まず小さな小島に到着した。
天気が良ければ、さぞかし眺めのよいところなのだろう。
島を一周し、次の船に乗り込む。
後でわかったのだが、船の切符は湖内の各島を乗り継ぐ分も含まれている。
従って、どの船でも乗ってよい。
続いて、もう少し大きな島に着いた。
こちらは島の中に湖が4つある。
西湖内の島の中に湖があるわけで、何とも不思議な光景を作り出す。
何度もう言うが、天気さえ良ければ、さぞかし美しい眺めだろう。
だが風雨が強くて、のんびりする気になれない。
島内のお店で、飲み物とお菓子を買って、休憩所でしばらく過ごした。
飲み物だが、蓮根から作るものらしい。蓮根の字が書いてある。
ドロっとした甘い飲み物で、ここの名物らしい。
たぶん、ここで栽培したものなのだろう。
きっとハスの花もきれいなんだろうな。
あまりの寒さに湖畔に戻ることにした。
湖畔に戻ると船の切符の有効が切れる。
最後の船旅というわけだ。
その船の中で、我が娘は深い睡眠に入ってしまった。
船を下りてから、腰痛を我慢し、眠ってしまった娘を抱きかかえて、大雨の中、どうしよう?
そもそも、どこに下りたのだ?
元の場所と違う。
ようやく、ここが湖の北側であることがわかった。
さぁ、どうしよう。
幸いレストランをすぐに見つけることができた。
ちょっと高級な感じのレストランである。
レストランに入ると、店員さんが奥の部屋に案内してくれた。
椅子を並べて、娘をその上に寝かす。
ここでチャーハンなどを注文し、お昼を食べた。
親が食べ終わる頃、ようやく娘が起き出した。
ぐっすり1時間は寝ていたか。
旅の疲れと雨の寒さで、ぐっすりと寝たわけだ。
娘には水餃子を注文して食べさせた。
10個の水餃子を全部、娘は食べつくす。
元気復活の娘であった。
案内板によれば、近くに浙江省博物館もあるらしい。
そこで続いて浙江省博物館に行く。
入場無料だ。
遺跡から発掘されたものや、歴史的文物を展示している。
宋代の兵士の装備とかが面白い。
また近代の革命女傑の肖像画が目に付いた。日本留学時の和服姿で、短刀を構えている。カッコいい。
博物館を見学後、タクシーに乗ってホテルに戻ろうと思った。
タクシーはたくさん来る。
ところが、どの運転士からも乗車拒否された。
ここからならホテルが近く、初乗り料金で済んでしまうため、儲からないからだ。
湖の反対側の塔に行ってみないかとか言ってくる。
行かない。ホテルに帰るっと言うと、誰も乗せてくれない。
30分以上粘って、やっと1台を捕まえて、乗り込むことができた。
どいつもこいつもサービス業の基本を知らぬ連中だ。
おかげで、雨でずぶぬれになったじゃないか。
おかげで中国の後進性を知る機会となった。
趙匡胤は宋王朝の創業者。
名君中の名君として、ファンが多い、非常に人気のある皇帝だ。
周王朝の「近衛長官」だったが、幼帝に不安を持った軍部によって皇帝にされてしまった。
しかも大酒を食らって、酔い潰れているうちに、
気付いたら皇帝になっていたという間抜けな逸話がある。
即位後、周王室の一族を丁寧に扱う。
宋王朝を通じて周王室の一族は手厚く保護されていた。
前王朝を徹底殲滅するのが慣例となっていた中国史の中で異色の出来事だ。
天下統一のために、各地の国々を次々と滅ぼすが、
降伏した国の君主一族を貴族にして、手荒なことをしない。
これまた、中国史はおろか、世界でも珍しいケースだ。
唐代から地方勢力の跋扈の原因となっていた、
節度使の力を減らし、無力化するが、
強引な手を使わず、辛抱強い話し合いと、名誉を相手に与える仕方で問題を解決する。
軍人出身でありながら、文官中心の政治体制を確立し、
皇帝権力を強化しているが、本人の鷹揚な性格上、
圧政的になることはなかった。
宋王朝は文弱で軍事を軽視し、
北方の遊牧国家に対し、軍事力ではなく、金で解決する傾向があるので
弱々しいイメージがあるかもしれない。
実際には、極めて精強な中央軍を組織していた。
趙匡胤時代では、少ない兵数で中国全土の秩序を維持することができたのだった。
自分の欠点や失敗を隠そうとしない点も異色の皇帝と言える。
あるとき部下の諫言に腹を立てて、その部下を杖で叩きのめしたことがあった。
後で、悪いことをしたと、こっそり謝りにいく。
そんな人間的な弱点を隠さないで記録に残させる。
政策面は弟の趙匡義が取り仕切っていた。
兄の皇帝即位を実際に画策したのは弟だったのだろう。
頭の切れる弟と、鷹揚な兄のコンビで宋王朝が始まったわけだ。
宋の首都である開封は、
市民文化が花開き、夜も賑やかな不夜城であった。
唐王朝の長安が、夜になると外出禁止になったのとは大違いだ。
自由な雰囲気が町を覆っていた。
長安は官営都市だったが、開封は民営都市だったと言えるかもしれない。
殺伐とした血生臭い五代十国時代の空気を改め、
文民優位の経済繁栄、民間文化振興の宋代が始まったのは、
趙匡胤の性格によるところが多いとされる。
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サーバー用のOSとして、UNIX系のOSが使われることが多い。
パソコンOSもUNIXの機能を真似していたり、影響を受けていたりする。
そんなUNIXを開発したのがケン・トンプソンだ。
トンプソンはATTのベル研究所に勤務していた。
ベル研究所では新しいOSの研究開発が進んでいた。
Multicsと呼ばれる、極めて先進的なOSが完成する。
だが、あまりの多機能だったため、パフォーマンスが悪く、当時は使い物にならなかった。
ベル研究所がMultics開発から脱落した頃、
トンプソンはIBMのコンピュータ上で動くSpace Travelというゲームにはまっていた。
しかし、このゲームを行うためのコンピュータ使用料が馬鹿にならなかった。
トンプソンは課金を心配せずにゲームを存分に楽しみたいと考えた。
ちょうどベル研究所で、DEC社のコンピュータが、使われずに放置されていた。
トンプソンはこのマシンで、ゲームができないかと考える。
ゲームソフトを動かすための、OSを作り始めた。
Multicsが持つ多機能のうち、ゲームソフト稼動に必要な機能だけを取り出し、UNIXを生み出す。
これがかえって、実用的なOSとなってしまったのだ。
考えてみて欲しい。
あなたが今日、行わなくてはならないことをリストアップしたら10あったとする。
そのうち優先度の高い2つだけを実行しよう。
他の8つは実行しなくても、あなたは8割、成功するだろう。
世の中、完璧を求めてはならない。
優先度の高いものだけを実現するだけで、ほぼ満足できる結果が生まれるわけだ。
しかも努力に対する成功度の効率は非常に高い。
さらにトンプソンはUNIXのソースコードを大学の学生たちに自由に改変することを許可した。
学生たちは、次々とUNIXに新機能や改良を加えた。
オープンな雰囲気のもと、UNIXは発展する。
UNIXの有用性に気付いたATTは、一時オープン化を止め、ソースの非公開に踏み切る。
だが、一度、オープン文化を味わったUNIXは、次々、亜流を生み出していった。
UNIXが大企業や公共機関が使用するメインフレームに搭載されてはいても、UNIXの公式マニュアルの重要な1章はゲームについてである。
これが、UNIXの文化なのだ。
杭州市中心部から若干離れたところの歴史テーマパークの宋城に行ってきた。
日本の日光江戸村とか明治村みたいな場所である。
杭州は南宋時代の首都だったところだ。
そのため宋時代への憧れが強いらしい。
タクシーで乗り付けると、まだ開園前だった。
主に中国の生徒たち(修学旅行?)が多数、門前に集まっていた。
9:30に開門する。
するといきなり、ラッパの音と共に、甲冑をまとった兵士らが登場し、
お客さんたちを整理し始めた。
スタッフたちも、すっかり宋時代になりきっているらしい。
馬に乗った兵士の行進もある。
そして、皇帝と思われる人物が出てきて、口上を述べてから、
入場開始となった。
まぁ、いろいろとパフォーマンスが考えているねぇ。
園内では昔風の建物が並び、寸劇やパフォーマンスが行われている。
あちこちで、馬車に乗らないか? 昔の服を着てみないか?あるいは、ご飯食べないかと客引きしている。
スタッフも昔の装束でもてなしてくれる。
一人10元でラクダや馬に乗れる。
妻と娘はラクダに乗った。
ラクダを引くスタッフは顔立ちが漢民族と異なる。
チベット系かどこかの少数民族だと思う。
妻と娘は皇女の服を着て悦に入っている。
猿と山羊の曲芸も面白かった。
大きな劇場があり、歌劇をやるみたいだが、時刻表を見たら、18:30に1回目上演となっていた。
そういえば、日曜だというのに客入りが少ないことに疑問を感じていたが、
どうも夕方以降に劇を見に多くのお客が来るみたい。
私たちは歌劇は見られなかったが、何箇所かでカンフー劇や、寸劇を楽しむことができた。
茶店でゆっくり茶を飲むのもよし、中華饅頭や豆腐の串刺しを食べるのも良し、
昔の服装を着てみるのも面白かろう。
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ノイマンはプログラム内蔵方式のコンピュータを開発した人。
正確にはプログラム内蔵方式の論文を出した人である。
ハンガリー生まれで、ハンガリーでは英雄扱いだ。
現在のコンピュータのほとんどは、ノイマン型だ。
飛躍的に発達したコンピュータだが、
基本的な仕組みはノイマンたちが開発したものと変わっていない。
非ノイマン型も幾つか提案されて研究が進んでいるが、普及してはいない。
ノイマンは数学者として名をはせ、純粋数学でも多くの功績を残した。
1930年にアメリカに渡り、プリンストン大学教授となる。
経済学にも興味を持ち、最近流行のゲーム理論にも関わっている。
後にアメリカ市民となり、第二次世界大戦以降は原爆開発に従事した。
数学の天才ぶりを示す逸話が残っている。
ある同僚の数学者が一晩徹夜して、ある数学の難問を解いた。
喜んだ同僚は、うれしさの余り、ノイマンのところを訪れる。
ノイマンは、どんな問題なのか聞くと、数分間考え込んだ。
その後、すらすらと解いて見せた。
徹夜明けの同僚の顔は、見る見るうちに青ざめていったという。
世界最初のデジタルコンピュータはペンシルバニア大学のENIACである。
1万7千本の真空管、重さ30トンもある巨大な装置だった。
だが、プログラムは配線を変えることで行うもので、非効率だった。
ENIAC開発チームは後継機EDVACの開発に着手する。
EDVAC開発にノイマンが参加し、プログラム内蔵方式の理論を
一流数学者であるノイマンの名前で発表する。
EDVACの開発が遅れたため、世界最初のプログラム内蔵方式のコンピュータは、
ケンブリッジ大学のEDSACとなってしまう。
それでも、現在に至るまで、ノイマンの名前で、コンピュータの仕組みを呼ぶ。
一般に数学者というと、部屋にこもって頭を使うだけの、
ひ弱なイメージがあるかもしれない。
実際の有名な数学者は、大抵、強健でタフな体力の持ち主だ。
体力がないと、数学の研究はできないらしい。
ノイマンは大の宴会好きであった。
ほとんど毎日、人を自宅に呼んで、朝まで飲んで騒いでいた。
服装に無頓着で、残されている写真で着ていたものはみんな同じ服だったという伝説がある。
運転も乱暴だった。
しょっちゅう衝突事故を起こしている。
天才は運転中も考え事をするので、事故が多いのだと思ってはならない。
攻撃的な性格で、運転が乱暴というのが正解だろう。
ノイマン先生の車が近づくと、学生たちは一斉に逃げ出したという伝説もある。
原爆開発には積極的で、ソ連への先制核攻撃を主張した。
どうせ使うなら、早い方がいいという明快な論理からだった。
著名な数学者でコンピュータ理論を打ち立てたノイマンは、
活動的で、パワフルで、過激な性格の持ち主でもあったわけだ。
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新羅の第29代の王。
朝鮮半島で、高句麗、百済、新羅の3国に分かれて争っていた中から、
一躍、新羅が他の二国を滅ぼして統一朝鮮を作り上げたのが、この王である。
この人の行動力は凄い。
即位前の王子だった頃、自ら、唐、高句麗、日本に赴いている。
時に新羅は高句麗と百済の南北からの挟み撃ちに遭い、滅亡寸前だった。
642年、百済が新羅を侵略し、次々と新羅の四十余城を攻略した。
金春秋の娘婿も百済軍によって斬殺されている。
百済への報復を決意した金春秋は、高句麗に行って援助を請う。
しかし高句麗王は金春秋を監禁してしまう。
金春秋はやっとのことで密かに故国に窮状を訴えた。
新羅は1万の軍勢を出し、金春秋の解放を高句麗に要求する。
こうして、釈放されたのだった。
647年、新羅は金春秋を孝徳天皇の統治下の日本へ派遣する。
日本書紀によれば、金春秋は容姿端麗で、巧みな話術の持ち主だったらしい。
彼は日本の実情を把握し、豪族連合に過ぎない大和朝廷の弱点を知った。
さらに、唐の太宗に援軍を要請するため、648年に長安を訪問している。
唐の記録でも、金春秋が美男子で、笑顔を絶やさない好人物であったことが記されている。
高句麗、日本、唐を自ら訪問した王族というのは、日本では考えられない。
唐から海路での帰国の途上、金春秋一行を高句麗軍が拿捕する。
従者の一人が機転を利かせて、金春秋を逃がし、自分が王子の服装を身に付けた。
高句麗軍兵士たちは、王子と間違えて、従者を殺害した。
危機一髪で逃れた金春秋は従者の遺族を厚く報いたという。
654年に、52歳の金春秋が即位し、武烈王となる。
655年、百済・高句麗が新羅北部を攻略。
武烈王は唐の高宗に援軍をたのむ。
高宗は軍を派遣し、高句麗を攻撃した。
唐は657年に遊牧国家である西突厥を滅ぼしたので、
対高句麗・百済戦に全力を傾けることができるようになった。
唐・新羅連合軍
唐・新羅の大勝利で終わる。
660年に百済が滅亡した。
661年に残念ながら武烈王は死ぬ。
が、新羅の優勢は止まらなかった。
今度は、日本が百済復興軍に参加するが、
663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れる。
日本軍は兵力こそ圧倒していたが、
指揮不統一の弱点を抱えたまま、完全に壊滅した。
668年に唐・新羅軍が高句麗を滅ぼす。
670年に新羅と唐の間で、武力紛争が発生する。
676年に唐軍が朝鮮半島から撤退し、新羅による朝鮮半島統一が完成した。
武烈王の巧みな外交術で、高句麗、日本、唐を操り、
その結果、一番の弱国であった新羅が最終勝利者となったわけだ。

